去年諸事情があって引越しをすることになった。それまでの家にはかれこれ15年ほども住んでいたうえ広かったので、とにかく引越しをしなければならないとわかったときには、頭の中が一瞬真っ白になった。つまり広いがゆえに、それまでは何でもどこかに収まっていたのである。娘たちの思い出の洋服・幼稚園の作品・学校の作品・おもちゃ・教科書・写真・景品の山・旅の思い出・読み聞かせをしたたくさんの本…。加えて私自身も小学生のころからの宝物(プレミアの価値など微塵もないチョコレートのおまけのカード、などなど)やたくさんの洋服(若いころからサイズが変わらない上に流行などまるで気にしないので、なんと高校生のころからの洋服まである始末!)、そしておびただしい数の本や雑誌。よく見たら専門書は殆どなく、旅行書や雑誌ばかりで、この中にも中学生の頃に買ったとおぼしきマドモアゼル・ノンノなんていう雑誌まである。子供たちが無造作に集めては飽きて投げ捨てている文房具や髪飾り、バッグ類などもすごい数になっているではないか。とにかく「もったいない」が口癖の私はあらゆるものを、「まだ使える」とか「思い出だから…」という理由とともに家のどこかに収納場所を見つけてはしまっていた。そのような状態であったから、この家を引っ越すという事態になったときの私のパニック状態を想像していただきたい。しかし呆然自失となっている時間などない。早速膨大な引越し計画が始まった。といえば聞こえはいいが、結局はひたすら家の片隅をほじくっては片付けるという気の遠くなるような作業が始まったのである。これがまた出てくる、出てくる。どこを掘っても何か出てきた。最初は宝探しのようで、片付けながら出てきた掘り出し物とのご対面を楽しんだり懐かしんだりしていたが、次第にそんな余裕は時間的にも体力的にもなくなり、最後はこれだけ溜め込んできた自分にひたすらあきれたり呪ったりしながら、黙々と作業に没頭した。さて、引越し作業で一番苦しんだのは、なんといってもいかに長年連れ添ってきた愛しきものたちと決別するか、であった。いろいろ苦しんだり悩んだりした末に、結局私は自分の余命を思った。未来がまだまっさらな若い頃とは違い、もうこれから先は想像がつく人生である。「まだ使える」という理由には、いつ、どこで、と具体的に考えるともう使わない可能性が高いことに気づいた。そして、私が突然死したとき、これらの膨大なガラクタの山を残され途方に暮れている家族を思った。死んでまで恨まれてはたまらない。元々引越しのための整理でもしない限り、自分でも持っていたことを忘れていたようなものばかりなのであるから、ここは思い切って見なかったことにして処分しよう、と決意した。あの世に持っていけるのは思い出の品々ではなく、思い出である。そうだ、これからは物を持たず、思い出だけを増やして生きていこう、そう決意してやっと処分したら、身体だけでなく、心も軽くなったように感じた。しかし、誘惑だらけのこの世の中で、果たしてこの決意がどのくらい続くだろうか。
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