学生時代、興味のある一部を除いて講義は退屈であった。「教える」先生方は毎回数十分~2時間近く同じトーンで淡々と説明し、板書をし、の繰り返し。「教わる」側のこちらは、ノートに書き取ろうと努力をするが睡魔に勝てず、講義終了で周囲が動き出す気配でハッと目覚め、ほとんど聞けてない自分に自己嫌悪に陥ったり、あぁ、これで部活に行ける、と逆にうれしくなったり。そのうちに講義を効率よく欠席することを覚え、ぎりぎりの出席日数で試験に通ることを仲間うちで自慢しあう、なんていうおかしなこともあった。時には計算を間違えて出席回数不足で再試験の憂き目にもあった(自業自得)。そもそも出席をとる講義自体が少なく、実習が始まるまでは大学にいる時間が短かったような……(懺悔)。試験一発で勝負、というおおらかな時代であった。現在の医学生はICカードを何かの端末にタッチして出席を確認するという話も聞く。技術の進歩は人にとって良いのか悪いのか……。おっと、閑話休題。そんな出来の悪かった元学生は、馬齢を重ねるほど自らの無知を自覚し、多くの人にもっともっと教えて欲しいと思っているのに、いつの間にか「先生」「~長(チョウと読みます)」なぞと言われ、何と!若者にナニかを「教える」という立場になった。そこで初めて気が付いた。経験知はあるものの、希少疾患や新たな疾患概念、治療法etc.・・・おのれの知識あやふやなることこの上なし。未来ある若者に間違ったことは教えられない、と慌てて基本の復習と最新情報を習得。パワーポイントにありったけ盛ってみるが情報過多でぎちぎち、学生時代に時々見たようなめまいが起こりそうな細かいプレゼンに。自らの経験上これでは頭に入らない、と情報を削ると今度は言いたいこと・ニュアンスが伝わらない。専門領域のトレンドも盛り込みたい、聞いているみんなの眠気を飛ばすような小ネタも入れたい、臨床医の心意気も伝えたい、時間内に終わる内容に…と悩みに悩んで試行錯誤の繰り返し。プレゼンが一応の形となるまでに、講義時間の数倍~10倍の時間を要した。嗚呼、「教わる」と「教える」の一文字の違いのなんと大きなことよ! 学生の自分に言ってやりたい「おいお前! 講義をする先生の大事な時間をもらっているのだから寝ずに講義を訊け!!」、と。人にナニかを「教える」とはすなわち、ある物事について深く理解した「知恵」を次世代にわかりやすく引き継ぐことである、という真理に今更気づくのであった。「教わる」時には講演される方の思いを聞き逃さないようにしなければ、と自らに言い聞かせる今日この頃である。
|