小学校の低学年だった頃、1日10円の小遣いを駄菓子屋にせっせとつぎ込んだ。10円を超えるものは高価な買い物だった。年齢が上がるにつれて、お金の価値は多様化していった。一般に商品の価格設定には法則があり、それに則って値段が決められているのであろうことは分かっていた。つけられた値段に対してこれは安い、これは高すぎるなどと評価できるようにもなった。しかし、医療の値段はどうなのであろうか。長年勤務医として働いてきて、ある程度の年齢までは保険の点数などに関心を払うことはほとんどなかった。ただし医療の値段(保険点数)の決め方は、一般の商品とは少し違うのであろうという漠然とした思いとともに、次のようには考えていた。確固たる原則または計算式はあるに違いないと。 「聖域」だと思っていた。宗教上の問題ではない。ふれてはならないとされる事柄や領域のたとえとしての聖域である。医療は「聖域」だと思っていた。経済的な問題、精神的な意味での聖域である。病院から何時呼び出しがあるか分からない、夜中にいくら働こうが給料は一緒という環境で働いてきた勤務医も少なからずいるだろう。困難さを乗り切る鍵は、もっと学びたいという思いや精神的な満足感、あまりお金にとやかく言わなくてもやっていけるという気安さと、いつかはもう少し楽になるだろうという期待ではなかったか。そこに聖域なき改革がやってきた。聖域なきとは非常にうまい言葉だ。根底に平等性があるような気になるからだ。もちろん聖域なきとは経済的な政策ではある。しかしこれが何時しか医療における精神的な聖域までにも踏み込んで来てしまったのである。 さて医療の値段である。例えば平成18年度の改定では、私が多く関わっているペースメーカーの手術点数は半減または1/3になるとともに、植込み型除細動器の手術点数も減額された。極めて高い技術を必要とされる両室ペーシングの点数もそれに見合うものではない。大きな衝撃を受けたのだが、値段の設定には確固たる原則または計算式があるのだから根拠が示されているに違いないと思い直した。おそらく手術の難易度、携わるドクターや技師・看護師などの数と時間あたりの単価、手術時間、医療材料費、医療機器の減価償却費などを基にしているのであろうから、値段が下がった理由が明らかにされているに違いないと。しかし聞くところによると、我が国の厚生労働省には我々に示すことのできる診療報酬点数決定の根拠となる計算式など基準的なものを持っていないようなのである。総枠が一定あるいは減少する中で、2年に1回の競争結果で各関係者が一喜一憂していただけだったのだ。なんてこった。 勤務医も医療の値段について真剣に考えなければならない。これなくしては、診療、研究、さらには若いドクターの教育さえもおぼつかなくなりそうな気がする。
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