いま、必要なのは親の“厳しさ” 一臨床初期研修の行方 第4報- 最近、小・中・高校生の事件が目立つ。彼らが犠牲になる痛ましく、いたたまれない事件も多いが、彼らが殺人犯として捕らえられ、唖然とする事件が多発している。その新聞記事の中で「むしゃくしゃしてた」「ついかっとなって」「相手は誰でもよかった」というような表現が目をひく。容疑者となった彼らの真の思いは新聞ではなかなか伝わってこないということを差し引いても、私にはとうてい理解できない。「そんなことでどうして人を殺しちゃうの?」 少なくとも1980年台以前にはこういった事件はほとんど耳にしたことはなかったと思う。では、当時と現代で何が違うのか。私は最近の子供たちには「打たれ強さ」が足りないのではと思っている。事件を起こすきっかけは他人、あるいは社会との軋轢、すなわちストレスである。以前は、私の体験からも、こういった状況でそのストレスの多くは自分で処理できていた。ボールを地面にぶつけはしたが、他人をめがけたことはなかったし、壁に向かって拳を振り上げはしたが、他人を殴ったことはなかった。そもそも外に向かってストレス発散ということはまれで、自分の内部で処理する力を持っていた。たいていは「耐える」ことで、次の新しい目標に向かって進み出していた。 この「耐える」力は親が与えてくれたものだと思う。当時の子供の両親は当たり前のように自分の子供だけでなく、他人の子供たちも同じように叱った。時には体罰もあり、それはとても恐いもので、それを考えただけで「抑止力」になっていた。叱ることでやってはいけないことをしっかり教えると同時に「打たれ強さ」を身につけさせてくれたのだと思う。だから、学校の先生に怒られ、友達から仲間はずれされても、しばらくすれば自分で平静を取り戻せたし、親に叱られても、殺意をいだくなんてこともなかった。だから、少子化とはいえ、子供を大切にすることだけに目を向けずに、もっともっと親が子に対して節度ある厳しさで臨むことが必要だと考えている。自分の子にこうした「打たれ強さ」を早い時期から植え付けるという親の責務を果たせば、理不尽な事件はかなり減ると思う。 翻って、臨床初期研修について。今までの既報でシステムの「責任者不在」を指摘してきたが、それを裏返すと研修医は研修中に「打たれる」ことがほとんどないことを意味する。指導者は多数いても誰も「親」になる必要がないから、「子」は楽をしてしまうし、それが当たり前だと勘違いして成長してしまう。つまり、「親」不在の研修制度で「子」が育っているのである。将来、患者さんとのせっぱ詰まった状況で耐える力を蓄えてないとせっかく築きあげた信頼関係はいとも簡単に崩れ去ってしまう。初期研修システムにおいても、必要なのは親の「厳しさ」であり、初期研修で「打たれ強さ」を養うことが必須であろう。さもないと、彼らが指導医になったとき、「親」として「子」である次の研修医を育てられるかが甚だ疑問なのである。
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