今まで1句も俳句を詠んだことも、勉強したことも無い私がこのような題で文をのせるのはお門違いのような気がする。しかし、俳句とは長い間にいろいろなかかわりがあった。子供の頃時々家で俳句の会があり、夕方になると座敷に座布団や煙草盆お茶などが用意され大勢の人が集まった。今から考えると俳誌「新雪」の同人の方々の例会であったようだ。あるとき私が風邪をひいて、俳句の会が開かれている部屋の隣部屋に寝かせられていたことがあったが、ふすま越しに句を読み上げる声とそれについての批評や感想などの発言が聞こえてきた。やがて父が句を読み上げる声が聞こえた途端、一際大きく(これはまたいつものヘンヘの句だしな)という声が聞こえ一同爆笑、私は子供心にも父の俳句はこの会ではあまり高く評価されていないように感じたものである。
学生の頃、お盆かなにかで家族が集まった時、兄の重雄、憲雄との話しで (おやじが今度句碑を建てるそうだ。) (句碑ってなんだ。) (よい句が出来たので石に彫るのだそうだ。)
それは母と京都旅行の時詠んだ 花冷えて 祗王寺の 臥せており
という句である。そこで兄弟三人でこの句を検討してみたが、今一つピンとこないということになった。それよりも「腹はって祇王寺のママ 横になり」とすると川反のバー祗王寺のママが酒を飲みすぎて腹がはって横になっていたという情景がよくわかるということになり、早速父に申しいれたが、何という文学的素養のない情けない奴らだとあきれはてて物も言えない父であった。
その句碑は俳句の師の安藤和風先生の 迷いては 出にけり花の もとの道
という句碑とともに秋田回生会病院の中庭にある。 その父も心筋梗塞で急死したが、死後身近においていた手帳を見ると、予定表とともにその時々に詠んだ多くの俳句が書かれており、何時どのような時でも俳句と向き合っていた父であったことがわかる。
往診 雪空や ここが寝所 という暗さ 無車
家内の母も俳人であった。家内が出産の時の
耳さとき 妊婦気使う 小夜時雨 小玉 秀
という句がある。
医局時代、兄の手伝いで帰秋した際その義母に往診を依頼された。高熱と広範な皮下出血で、末梢血で白血球、血小板がほぼO、骨髄像でも顆粒球がほとんど見られない最重症の再生不良性貧血で、今なら骨髄移植で救命出来たかもしれないが、その後辛い入院生活が始まった。
病床吟 血のほてり 春の霞に 浮かれゆく 小玉 秀
俳句というものは不思議なものである。見ず知らずの人が詠んだ句でも感動する事があるが、まして身近な人、忘れられない人の句を読むと、たとえ長い年月を経た後でも詠んだ人の感情、周囲の情景などありありと浮かんできて本当に強く心を打たれるものである。この年になると私もそのうちには何とか一句詠みたいと考えているこの頃である。
秘色 小泉無車 春愁 小玉 秀より
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