飯川先生からのバトンタッチで、私の番になって来ました。私は平成12年1月に書いているので、もうペンリレーには遭遇しないと思っていたのですが、飯川大先輩よりのバトンなので受けとる事にしました。 丁度この話があった時、草野信男先生が死去されたのを知りました。秋田の先生達は草野先生の事は余り御存知ないとは思いますが、病理学者で、東大伝染病研究所の教授をしておられた方で、この5月14日92才でなくなられたという事であります。草野先生というとピンと原爆の事を思い出しますし、後述する様な事があったからであります。草野先生は原爆被害地広島での調査をはじめ、一早く第1回国際医師会議(1953年5月23日~5日、ウイーンで開催)で報告しました。当時原爆の医学的資料をもっていらしたのは、彼が一番ではなかったのではないでしょうか。その後にも、「本における原爆被爆の遅発性影響」(滋賀秀俊氏と共書)等執筆されております。 さて私が東北大学医学部に入学し、その頃は毎年「医学祭」が開かれており、夫々のグループが出し物を出して市民に一般公開をしておりました。大抵5月であります。そこで私は世界で始めて被害を受けた日本の原爆の実体を仙台の人々に知ってもらおうと思って、現在秋田で開業しておられる川原浩先生と共に思案をしました。時は昭和25年(1950年)であります。すると草野先生が資料や写真を持っていらっしゃる事を知り、では早速連絡をとり、原爆被害の写真を中心におかりする事が出来る事になった訳であります。然し先生はご多忙で直接お会いする事が出来なく、東大の医学生を托してお借りする事になりました。当時仙台から上京するのは夜行列車で行き、夜行列車で帰仙する日程で、今ならば東北新幹線で、2時間弱で仙台・東京間は行き来できますが。 お借りする場所は今もありますが、東大病院の傍の秩父宮運動場の下に、今は生協などの売店がありますが、当時は各サークルの部室があり、真処に行き資料を借りた訳であります。貴重な写真など川原先生と一緒に大きな風呂敷に包んで運びました。渡してくれたのは和気朗君(後に伝研のウイルス学者となる)と東大薬学部の長谷川君からであります。和気先生は私達より一級上で三年生であったと思います。その後ある集会で二十年位立ってからお会いして話し合った事があります。長谷川君とはその後お会いしていません。 今ならば宅急便というものがあり、それに托して送れば済むのですが、敗戦後5年という、未だ日本は復興の緒についたばかりで、東大から上野駅迄資料を運んでいく道すがら、当時パンパンといわれた女性が列をなしていました。「お兄さん遊んで行かない」と声を掛けられたのを覚えています。そんな時代でありました。今の若い医師には想像もつかない事でありましょう。 「医学祭」の原爆展は一般市民に大変興味をもたれ質問も受けました。然し未だ医学部2年生の私には充分答える事は出来なかった事を思い出します。その後各地で原爆展が行われたと思いますが、戦後5年で医学的な資料をつけた原爆展のはしりではなかったかと思います。 ところで現在国会では有事法制三法案(武力攻撃事態対処法案・安全保障会議設置法改正案・自衛隊法改正案)が審議されており、海外での武力行便に道を開く危険が出たり、「非核三原則」の福田官房長官の発言があったりして、なんかきな臭い感じを私はもっております。と共に日本の進路にも、心配と不安を強めております。また日本政府は、核兵器廃絶や核実験禁止の問題をはじめ、アメリカの危険な動きに、世界でも例のない追随ぶりをみせています。100以上の米軍基地がおかれるもとで、前述の「非核三原則」をじゅうりんして核兵器がもちこまれ、さらにアメリカが引き起こす戦争に日本が本格的に組み込まれる危険が強まっています。被爆国であり、憲法第9条を持つ日本が真に世界平和のために貢献することこそ、広範な日本の国民の願いだと私は思っています。 このペンリレーの文章が出るのが8月号だという事もあり、広島・長崎の8月6日、8月9日の原爆の事を思い出して書きました。 インドとパキスタンの間にも核兵器を用いる戦争が起こりそうであります。なんとか被爆国であり憲法第九条をもつ国民の反核・平和の声を響かせようではありませんか。 草野先生のご冥福を祈ると共に、50余年前の御好意に感謝をします。 編集子から次の執筆者にはなるべく60才以上の先生をとありますので、いつも患者様をご紹介下さる宮川弘彬先生にお願いします。
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