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<ペンリレー>

発行日2023/02/10
秋田厚生医療センター  津田 栄彦
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義父の塔
 
 義父が亡くなり1年になる。義父は三重の高校で物理と地学の教師をしていた。義母は生物の教師で子供3人を育てた。現役教師時代はやんちゃな高校に赴任する時もあったそうだ。修学旅行で生徒が他校とけんかになり謝罪に行ったり、生徒に殴られた(殴り返した)こともあったと聞いた。妻は大学で秋田に来たが卒業後は三重に帰る準備もしていた。しかし、私と付き合い秋田に残った。妻の親戚が、秋田大学が学籍番号を男女混合にするからそういうことになると当時話していたことを冗談ぽく義母が最近語っていた。直接聞いたことはないが、義父も地元に帰ってくることを期待していたとは思う。秋田にはよく来てくれた。特に孫が生まれてからは年に数回、2~3週間逗留してくれた。定年後は自慢のランドクルーザープラドに乗り、三重から福井、新潟を通り、途中のサービスエリアなどで泊まって秋田まで来ていた。新日本海フェリーで敦賀から秋田港に着くこともあった。船上のお風呂がまた良いとのことだった。さすがに80歳近くになってからは、飛行機を利用した。体格はかなり痩せていたが筋肉質であった。痩せていたが大食漢で家に来てもご飯2杯は食べていた。好き嫌いはほとんどなかったが、ハタハタのブリコは苦手で唯一残した。また、妻がインドカレー屋に連れて行った時は、こんなサラサラしたものはカレーじゃない(おふくろのカレーと全く違う)と言って周りを困惑させたとのことだった。温泉が大好きでよく私と秋田温泉に通った。雪見風呂に感激していた。秋田に来た時は遊びも楽しんだ。何十年も滑っていないのに、果敢にレンタルして孫とスキーを滑ったり、海水浴場で一緒に泳いだり、80歳近くになっても妻と二人でバナナボードに乗り笑顔で手を振っていた。
 三重の実家は郊外の田舎で庭は広大だ。その庭の一角に義父は定年後、数年かけて木製の塔を一人で建てた。毎日毎日庭の片隅に出勤し、少しずつ作り上げていった。地下には井戸を掘り、電気配線も行い、高さ10m近くあるその塔は游々閣と名付けた。游は遊と異なり見慣れない字だが、(水に漂うように)ゆらゆらする、遊び暮らすなどの意味を持つようだ。巨大な木製の塔は梯子を重ねて、てっぺんまで登ることができた。塔には子供や孫たちの名前を付けた各部屋も作られ、ハイジに出てくるようなブランコを上から掛けた。帰省した時の孫たちの絶好の遊び場となり、私も塔の上から拝んだ初日の出には感動した。塔作りがひと段落すると、ロードバイクを電車に載せて、あちこちとサイクリングを楽しみ、帰りは温泉でゆっくりが日課だった。その後はカヌーが趣味となった。年に200日以上を自宅近くの清流に一人で出かけて、ひとり川下りを楽しんでいた。残された日記によると雨の日は自宅で読書、それ以外は毎日川に出かけていたようだった。1年前のあの日も三重で初雪を観測する一番の寒い日だった。天気は良かったようで義父はいつものように川へ出かけ、帰らぬ人となった。  
 コロナと子供の受験で妻だけが葬儀に出席した。1日も介護させてくれなかったなと妻が帰ってきて寂しそうにつぶやいたのが忘れられない。医師として、義父と同年代の高齢者と日々関わるなかで、心に去来することがいろいろとあるだろう。私もなんだか申し訳ない気持ちであった(秋田大学が男女混合の学籍番号に・・・)。
 コロナも少し落ち着き、受験も終わり、5月の連休に49日法要で私も子供たちも3年ぶりに三重を訪れた。さわやかな風が薫る鯉のぼりの掲げられた塔が見える和室で法事が行われた。にこやかな義父の遺影の横には秋田に来た時に孫たちにイタズラされて撮った写真も並んでいた。サングラスに七色のアフロヘアのカツラを被った、はにかんだ笑顔の写真だった。もう会えない悲しみの気持ちの中、写真をふと見て吹き出しそうになったが我慢した。夢と興味を持つ心を忘れず、とことんチャレンジするお義父さんの息子となり幸せです。これからも家族の会話にたくさん登場してください。ただ・・・お義父さん塔はどうしましょう?
 次回はいつもご指導をいただいている田村芳一先生にお願いしました。
 
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