高気圧にはさまれて迷走していた台風が珍しいルートで九州から関東を通過していった。翌朝カーテンを開くと庭木の枝葉の間から青空がのぞいていました。窓を開けると冷たい空気がスーッと部屋へ流れ込んできて秋が来ていることを肌で感じました。 毎年この季節になるとあの暑い夏はどこへ行ってしまったのだろうと思います。子供の頃から毎年楽しみにしていた土崎の港まつりは今年も中止になりました。梅雨明けの夏空の下、あちこちの町内から聞こえてくる祭り囃子や曳山の車輪のきしむ音、人々のうれしそうな声。そんな祭りが過ぎ去るといつもの静かな日常が戻り、何となく夏の終わりを感じつつ秋を迎える。幼い頃から自分の中にあった季節感やリズムがこのコロナ禍で薄れつつあります。毎日自宅と同じ敷地にある職場との行き来、ほぼ座ったままの仕事、外出といえば近所の往診くらいで、ひどく運動不足が続いていました。 ところで台風の過ぎ去った爽やかな秋晴れの朝、日ごろの運動不足を少しでも解消するべく、どこか広いところでゆっくり散策できる場所はないものかと考えました。県境を越えない範囲で自分の好奇心を刺激してくれる、広くてゆっくり散歩できる場所として選んだのが最近ユネスコの世界遺産に選ばれた「北海道・北東北の縄文遺跡群」の一つ大湯環状列石です。以前から縄文時代の遺跡として有名なあのストーンサークルですが実際に見るのは初めてです。この機会に縄文文化の学習と少しばかりの運動を目的に出かけることにしました。 大湯環状列石は鹿角市十和田にあります。自宅を出発した私は高速道路を使わずに285号線をゆっくり北上しました。途中上小阿仁の周辺は大分気温が低いのか川霧で前方が見えないくらいでした。比内を抜けて103号線に入り、さらに北上します。道の駅「おおゆ」に着いたのは11時ころでした。朝食を食べていなかったので早めの昼食をとることにしました。レストランの窓辺に座り、よく手入れされた芝生を眺めながら八幡平ポークのハンバーグカレーをいただきました。世界的な建築家が設計したという道の駅は秋田杉の温もりにあふれ特産品が豊富に並べられていました。しばらく休んだ後、この日の目的地「大湯環状列石」へと向かいました。 道の駅から車で10分ほどの距離にある大湯環状列石は米代川支流の大湯川左岸に立地する縄文後期前半に作られた大規模な環状列石を主体とする遺跡です。そこには「万座」と「野中堂」と呼ばれる2つの環状列石があり、直径が40m以上もあり、何世代にもわたって200年以上もかけて造り続けられたと考えられています。ちなみに縄文時代とはほぼ1万3000年前から1万年以上続いたと考えられており、土器の特徴などにより草創期、早期、前期、中期、後期、晩期の6つの時期に区分されます。氷期が終わり本格的な温暖化が進んだ前期(約7000年前)では平均温度が今より2度ほど高く、海面は4~5m高かったと考えられています。このため海岸線はかなり内陸まで入り込んで(縄文海進)漁労が盛んになりました。また温暖な気候によって広葉樹林が広がりドングリやクリなどの食料も手に入りやすくなりました。特にクリは灰汁抜きが不要で、幹や枝は加工しやすい材料にもなることから人々は植林を行い大切に育てていたようです。弥生時代のような農耕はなかったものの、大豆や小豆などの園耕はすでに始まっていました。土器の発達で煮炊きができるようになり人々の口に入る食べ物も多様化しました。青森県の貝塚ではハマグリやヤマトシジミなどの貝類、ドングリやクルミなどの木の実、鹿やキツネ、スズキやカツオなどの骨が発掘されています。このように狩猟、採集、漁労を行える環境が整って定住生活が可能となり集落が形成されていきました。特に前期の東日本では環状集落が作られるようになり、地域ごとのルールや掟、階級などもみられるようになり、このころから社会が複雑化していったようです。こうして人々の定住が進み生活の拠点であるムラが出現しました。そして中期になると地域を代表する三内丸山遺跡のような大規模な拠点集落が発達して、太い柱を使った大型の建物や祭りの場所としての盛り土などの施設も登場しました。当時ムラの周りには敵の侵入を防ぐための溝や柵もなく、温和で協調的な社会が築かれていたようです。またこのころから海や山を越えた遠方との交流や交易も盛んになり、ヒスイやアスファルト、黒曜石などが運ばれていました。 さて大湯環状列石の話に戻りますが、ここは縄文時代後期の遺跡です。今から約4000から3500年前の頃です。このころになると温暖化していた気候が冷涼化し、海面も下がって海岸線が遠くなりました(海退)。干潟も縮小し、貝塚も減り、主要な食糧であったクリも減少しました。そして中期に見られた大規模な拠点集落は減少し、集落の分散化が進みました。そんな時代に作られた「大湯環状列石」ですが、これは当時の集合墓と考えられています。サークルの内側には当時の人々が何キロも離れた河原から運んできた大小の川原石を組み合わせて作った配石墓が多数あり、中には有名な「日時計状組石」もあります。野中堂環状列石の中心から万座環状列石の中心を結んだ線は夏至の日没方向と一致していることから当時の人々は太陽の運行も意識していたのでしょうか。出土品も当時の儀式に使われた日常的ではない土製品が多く、あらゆる事に畏怖の念を持った人々の精神世界がうかがわれます。これら遺跡の概要や出土品の説明については史跡に隣接する「大湯ストーンサークル館」で学ぶことができました。外に出ると広大な遺跡周辺にはクリやドングリなどを植樹した「縄文の森」が再現されており、縄文時代の雰囲気を味わうことができます。森を抜けると広大な台地が広がり巨大なストーンサークルの周囲に遊歩道が整備されています。円形や菱形などに組み合わされた配石を眺めながら歩いていると、4000年前の人々の思いが今でもこの石の一つ一つに宿っているように思われて不思議な感動を覚えました。 人々が、豊かな自然と共生し、気候変動や自然環境の変化にも適応しながら1万年以上もの長い間持続可能な社会を形成した縄文時代は世界的にも他に例を見ない独特な文化であり、これらの縄文遺跡群は大変重要な遺産であることがわかりました。というわけでこの日は縄文文化の勉強と運動を兼ねたいい1日になりました。コロナ禍が落ち着いた後は東北の他の縄文遺跡群も訪ねてみたいと思っています。 次回の執筆は土崎レディースクリニックの松浦亨先生にお願いしました。
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