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<ペンリレー>

発行日2019/04/10
秋田赤十字病院  太田 翔三
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平成自分史との対話 ~昭和終盤から平成を一気に駆け抜けろ!~
 
  三浦 忍先生、黄金のバトンをありがとうございます。せっかくの貴重な機会をいただきましたので、平成という一つの時代が幕を下ろそうとしている今、一回自分史を振り返ってみたいと思い、筆をとりだしました(大きく出たな!独り言です)。オール私事で恐縮ですが、いまさらの自己紹介を兼ねまして、しばしお付き合いの程お願いいたします。

昭和56年(1981) 新潟県加茂市で出生。桐ダンスが有名なところで、そのシェアは現在も全国の7割とのことです。あと女優の樋口可南子さんの出身地です。なので??私のスマホ会社はS○B○でしたが、家庭の事情で同系列格安のY!○に変更になりました。またそれなりの禅寺があり、海外からも修行に来ていたと聞いていましたが、そのうちの一人が若き日のスティーブ・ジョブズ氏であったとわかったのはここ数年のことです。

平成元年(1989) 当時の8歳の太田少年は運動音痴で体育が苦手で、とても内気な少年でした。

平成6年(1994) 地元の公立中学校に入学。そこで問題になったのは部活動。なにをやるか。自分と同程度かそれ以下の運動能力と勝手に評価していた同級生が入部した卓球部に便乗入部。ところが、それがとてつもなく厳しい部で、連日朝5時前から朝練、夕には5-10kmランニング、大会当日は午前2時くらいから練習してから出発というようなこともありました。今では信じられませんが、当時は心配されるくらい私も痩せていました。ちなみに、私の入部のきっかけになった彼はとてもセンスがあったみたいで、強豪選手になりましたが、私は鳴かず飛ばず選手でした。しかし、この厳しい部活での経験により、その後の歩みに大きな影響を受けたと思っています。顧問であったS先生ありがとうございました。

平成9年(1997) 地元の県立高校に進学。このときお世話になった校舎は私が秋田にきてから起こった大雨で水没し、現在は移転していますが、当時の校舎裏に、ジャイアント馬場さんのご実家がありました。またこの頃、担任の先生の家がお寺であるという事を知り、冗談で「○○先生、家から霊柩車で通勤しているらしいよ」と軽い気持ちながら真顔で友達にいったら結構な噂になり、出どこを突き止められ、こっぴどく怒られました。そして、高校でも卓球部に入部しました。顧問の先生はとてもsense of humorのある英語の先生で私と同郷で同じ中学校出身だったので、とてもよくしていただきました。比較的薄黒い丸顔で、髪は短めで天然パーマがかかり、染めていたわけではないのでしょうが、色素が少ない系の金髪様でした。この先生は授業中は怖いことでも有名で、ある日、先生は真っ赤な顔で「このタコ!」と同級生をどなりつけましたが、そのときの先生の髪が、ちょうどタコ焼きにかかっている鰹節のようにみえ、「むしろ先生の首から上がまさにタコ焼きそのもの!!」と思ったことは今も忘れられません。タコ焼き、タコを怒る??O先生ほんとにすみません。

平成12年(2000) 高校卒業とともに順調に進学予備校に進学。結局2年間お世話になりました。センター試験の自己採点をうけて、どこに願書をだすのか迷っていた私に、「秋田(大学)でしょ!」と将来の母校を薦めてくださったI先生ありがとうございました。なんとか、夢であった医師の仕事をしています。ペンリレー執筆も大事な医師の仕事です!

平成14年(2002) ついに秋田にたどりつきました。秋田大学の学生に。最初に住んだアパートにアリが多量に出現し、すぐ引っ越し。あとで気が付くと、そのアパート名がアリック○○という名前でびっくり!宣告済だったのか??大学でも卓球部に所属しました。決して東医体等の大会はでないが、飲み会関係は必ず出席という不良部員でした。

平成20年(2008) 医学部卒業、国家試験もなんとかパスし、秋田赤十字病院で初期臨床研修医として働きだしました。さらにここでも卓球部に入部しました。赤十字病院の各科の先生方に多大なるご迷惑をおかけしながらも、なんとか臨床研修を終えることができました。某科(小児科でなく・・・)の部長T先生に「当科には太田翔三は必要ない。ただし、飲み会には太田翔三は必要です。」と言っていただいたことは私の誇りです。T先生ありがとうございました。

平成22年(2010) 秋田大学小児科医局に入局し、小児科後期研修医(専攻医)として、秋田赤十字病院小児科でお世話になりました。その後、医局人事で異動・研修させていただき、小児科専門医を数年前に取得することができました。なお、専門医取得に関しましては、同期の先生より取得が3年程遅れました。その理由は、学会費滞納による自動退会となり、受験資格がなくなるという経験をいたしました。自業自得。それ以来、事あるごとに後輩には「金払え!払え!!払え!!!」と言っております(恐喝か?)。またプライベートでは伴侶を得て(恐妻組合加入)、長女を授かりました。その長女も4月からは小学3年生になります。なお、今一緒にお仕事をさせていただいている先輩ドクター(当時まだ一面識もなかったのですが…)の次女さんとうちの長女は、同じ産科クリニックで、同じ日に、隣の分娩室で生を受け、かつ名前も一文字違いという不思議なご縁をいただきました。それ以来、公私ともに大変お世話になっております。そしてまさかの卓球ですが、妻の弟が卓球選手で高校時代、秋田県チャンピオンであったと知ったのも結婚後しばらくたってからのことでした。

平成25年(2013) 次女を授かりました。この春で年長さんになります。運動音痴で金槌の私と違い、クロール、平泳ぎ、背泳ぎ、バタフライいずれもできます。私は息継ぎができないので25m以上の“遠泳”は厳しいです。なお、たまに睡眠中の息継ぎもできないことがあります。でっかな扁桃はもう取った!少しは中学時代を思い出して痩せろ!!(独り言です)

平成27年(2015) 三女を授かりました。この春で幼稚園に上がります。私が帰宅すると、真っ先に「パパ、ちゃじゃいま!」と私を迎えてくれます。その度に「おかえりだよ」、と諭しています。

平成31年(2019) 現在に至り、秋田赤十字病院 新生児科で赤ちゃんの診療を中心にさせていただいております。
  ??元年(2019) まもなくですね。飛躍のある年としたいものです。

  こうやってほんの一部ですが、人生のエピソードをまとめてみると、今までも多くの先生方に助けていただてきたことにあらためて気づかされます。もちろん、これ以外の場面においても、数多くの先生方に導かれて、今の自分があることに感謝を致しつつ、今後とも精進していきたいと思っておりますので、諸先生方には引き続きご指導の程よろしくお願い申し上げます。
  そして、異動の準備で忙しい中、次回の執筆を快く引き受けてくださった小児科のりんご娘 永野篤子先生に感謝しながら、筆を置きたいと思います。
 
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