秋田市中通で開業診療しております、三浦整形外科医院の三浦利哉です。大学時代の先輩・柳田龍一先生からのご指名があり、原稿を書いております。 岩手医科大学を卒業し実家秋田に戻って秋田大学整形外科の医局に所属させて頂いてから19年になります。様々な施設での経験を経て平成23年3月に能代にあります山本組合総合病院を退職して実家に戻り、診療所での仕事を始めました。先代の診療所では駐車スペースが狭かったためこれを拡張し、診療所も新築して平成24年2月20日より新規開院、心機一転頑張っております。よろしくお願い致します。 さて現状からこれまでの自分の道のりを振り返ってみると思い出される時代が数々あります。短期間ではありますが、ある意味密度の濃い時期がありました。高校から大学に入るまでの浪人時代、予備校生としての期間です。10代末期の元気だけはある時期に実家を離れ、故郷秋田よりは都会なその地は時代がバブル期であった事もあって、非常にキラキラして見えました。『これから1年間勉強してまた受験するのだ!』という気合いは当初は全く無く、広く整備された道路やきれいな建物、たくさんの店や歩くたくさんのひと達などに圧倒され、そこに自分が居る事自体にドキドキしていました。要するにのまれていたのでしょう。高校時代とは全く異なる環境とキャラクターの濃い周囲のひと達。予備校の授業が終われば街に出て、用事も無いのに人波に流されてみたり、お店をのぞいたり、お茶したりとか。若いもんですから、どこへでもドンドン歩いてました。自転車くらい買ってもよかったのでしょうが、買わなかったです。思い返しても疲れたという感覚があまり無かったように思います。 また当然ながら自分のテレビは無かったのでほとんど見ませんでしたが、ラジオは聞いてました。CDも時々購入して一生懸命聞いてました。スペクトラム、角松敏生、ジョニー・ルイス&チャー、Xie-Xie、山下達郎、などなどナツメロです。不安定な身分でありながら親の金使って何やってんだ、って思います。ただあの頃の経験があって今の自分の人格の一部は形成されたのだと思います。秋田にだけ居ては得られなかった出会いや経験や価値観など、今どれだけ役にたっているかはわかりませんが、引き出しのひとつくらいにはなっています。結局は2年間そこに居る事になり、その後盛岡の医科大学に6年間通う事になり、そこでも様々な出会いがあって様々な経験もしていく事になるわけです。非生産的な存在であり、精神的にも不安定であった浪人時代にはもう二度と戻りたいとは思いません。ただフッと思い出された時に自分の気持ちをリセットしてくれたり、現実逃避させてくれたり、リラックスした気分にさせてくれたりする思い出ではあります。これまでの私の半生の中では重要で必要な期間だったのだと、しみじみ思います。この時期に一緒に過ごした人物が医師となって今も秋田市内にいるのですが、なかなかお会いできないでいます。一緒にお酒でも飲みながら昔話でもしたいものです。○○先生、どうでしょうかね。 こちらに戻って診療活動を開始してから中通り第2班で大変お世話になっております、高橋正喜先生に次回の執筆を依頼させて頂きました。先生、よろしくお願い致します。
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