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<ペンリレー>

発行日2011/01/10
土崎病院  八木 伸夫
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私はそばアレルギー
 
 他人の失敗談や困った体験というものは読むスピードが上がります。人間の脳がそれを欲しているからなのでしょうか。ということで、私は最も嫌いなものによる過酷な体験を書かせていただきます。
 小学校低学年の頃の大晦日。紅白歌合戦を見ながら年越しそばを頂きました。直後から唇とのどの痒みが出現しました。のどの痒みはつらく、奥なので掻くことも出来ず、いびきに似た音を立てるようにして痒みを紛らすしかありませんでした。私の体は最初の免疫器官であるワルダイエルの咽頭輪で、そばに反応していたのです。次いで、痒みは手のひらに出現しました。痒いので掻くのですが、それがくすぐったくて、掻きにくかったのを覚えています。そして痒みは全身に及ぶのですが、間もなく出現する喘息発作が苦しく、痒みどころではなくなってしまいます。父親に「紅白を観ているのに咳がうるさい」といわれ寝床に入りましたが咳は続きます。心配した母親が水を飲ませてくれました。ただの水なのですが、すごく効くような気がして感謝しました。「ありがとう。きっと僕、よくなる…ゴホゴホ…」残念ながらプラセボは効きませんでした。両親とも医療関係者ではなく、咳が出るということで大晦日に救急受診するなんて考えられなかった時代。ただ耐えるしかありませんでした。呼気相では、ヒューゼロゼロという音が振動を伴って胸の奥から感じられます。これを感じることが出来るのは咳嗽を伴わないときのみなので、これを感じると楽になる、と思いました。そのうちヒューゼロゼロが子守唄になります。「いつの間にか咳が止まって静かになったわね。」なんて実は呼吸が止まっていた、という結果ではなかったことに感謝。
 生き延びて中学生になったある日。台所に箱入りのクッキーが置いてあり、それをつまみ食いしました。すると、その直後からのどの痒みが出現しました。次いで手のひらが痒く…。これはまさしく小学校低学年の大晦日に出現した、あの症状と同じです。クッキーの箱には「そばクッキー。」その時、自分はそばアレルギーである、と確信したのです。その後、自分はそばを食べてはいけない体なのだ、と自覚して生活するのですが…
 高校1年生、昭和55年の大晦日。親戚の農家を訪れたとき。自家製のそばが振舞われました。そこで私は「そばアレルギーなので食べることが出来ない、」とお断りしました。しかし残念ながら本疾患はまだよく知られていませんでした。(札幌市で小学生がそば給食を食べてアレルギー症状を発症。帰宅途中に亡くなるという事例が発生したのが昭和63年。本疾患はそれからやっと一般に認知され始めたのです。)「高校生になってもまだ好き嫌いがあるのか!?」と、本家のご主人に怒られました。好き嫌いではなくてアレルギーなのだ、と説明しても、アレルギーなんて好き嫌いと同じことだ、と譲りません。理論は通じず、まるで酒が飲めない人に対する一気飲みの強要です。親は私をかばってくれて、「半分だけ食べればいいからね。」結局ご主人の力作、つなぎを使っていない、アレルゲンだけで作った自家製そばを半分だけ頂きました。その帰路はもちろん蕁麻疹の痒みに悩まされながらでした。しかし、あの、苦しい喘息発作までは起きず、減感作しているのがわかりました。危険な人体実験の結果得られた貴重な結論です。
 平成13年4月から、そばは食品衛生法施行規則第五条で、重篤なアレルギー症状を引き起こす特定原材料5品目の中に指定されました。同時に、原材料表示が義務付けられているのです。が…ある休日の話。昼食後に蕁麻疹が出現しました。昼食は私が大好きなヤ○ヨのつけ麺でした。何度も食べたことがあるのですが、こんなことは初めてです。袋を確認しましたが、原材料にそばは表示されていません。しかし、よ~く見ると欄外に補足が「※本品製造工場では『そば』を含む製品を生産しております。」原材料表示欄になくてもそばが潜んでいる、危険なこともあるという事ですね。落とし穴に注意。

 
 ペンリレー <私はそばアレルギー> から