医師になる前、大学で物理学を勉強したことがありました。今では、そのとき学んだ難しい方程式の類やその解き方はほとんど覚えていません。ただ、自然や宇宙を美しい数式で表現する学問だということは鮮明に印象に残っています。 当時、いっしょに大学で物理を学ぶ仲間たちと喫茶店に集まり、議論したことがありました。自然や宇宙を、すべて完全に物理学で説明できるか、つまり数式で表現し得るかということでした。マニアックなほど物理好きな仲間の一人は、「いずれ宇宙の現象のすべてを物理で説明できるだろう」と断言しました。私はどうかというと、物理学は大きな鳥かごのようなものだけど、鳥かごにはおさまりつかない、無限の宇宙が拡がっていて、それを人の作った鳥かごに閉じこめるのは無理だろうという考えでした。 過去に、ニュートン力学は完全に宇宙の森羅万象を説明しうると考えられていた時代もありましたが、どうしても光や物質の性質や、宇宙を完全に説明することはできず、量子力学、相対性理論、素粒子論が新しく生まれてきました。しかし、それとても鳥かごにすぎないのではないかというのが、私の考えです。どんなに鳥かごを大きくしても、おさまりきらないのが宇宙ではないかと思えるのです。 宗教もまた、その教養のなかで、人や宇宙のあり様を説明しようとしています。表現法は違うにせよ、物理学というのは一種の宗教ではないかとさえ思えてしまいます。 宗教も物理も、人がじょうずに生きていくための手段や道具のように思いますが、最近物理学の応用から生まれたコンピューターが進歩して、インターネット、携帯電話などが普及しています。私にとっては、これらの便利でいて不便なものたちは、さしずめ宗教でいうと、未完全な新興宗教の偶像といったところでしょうか。 ところで、医学書は10年も前のものになると読むに足るものがかなり少なくなってしまいますが、物理学の教科書や宗教の経典は、古さを感じさせません。最近の医学はエビデンスにこだわることが多くなりましたが、そのほとんどが経験的、統計学的手法によっています。 物理や宗教は、一つの法則や教義にのっとってすべてを説明しようとしますが、医学はすべてとは言わないまでも、ほとんどがデータ収集に追われています。物理や宗教が演繹的であるのと違い、主に帰納的手法で医学は成り立っています。研究者には申し訳ないと思いますが、そういう意味では生命を扱う学問は、まだ原始的な学問である気がしてきます。 実際、日常の診療の中では、医学的な知識にあわない場面に遭遇することがよくあります。しかし、現在の医学的な知識にあわないからといって患者さんを信用しないのではなく、こういうこともあるのかという謙虚な立場になって、訴えと病状をよく細部まで聞き、五感を用いて体を診察し、なぜ、どうして?という気持ちで診療に向かいたいものだと、いつも思っています。 次回は、はたの循環器クリニックの波多野宏治先生にお願いいたしました。
|