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<ペンリレー>

発行日2007/04/10
吉成医院  吉成  仁
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勤務医だった頃の話
 
 岩手医大の先輩であります健生クリニック・阿部二郎先生からバトンを受けました。受けたはいいものの何を書いたらいいのやら途方に暮れてこの文章も締め切りギリギリになって書いています。
 岩手医大・第一内科に所属していた頃の話を思い出すまま書いてみることにします。岩手医大を卒業後はそのまま大学に残ったため、6年前の平成13年4月に秋田へ帰ってくるまで医学生時代から数えると、約20年近く岩手県盛岡市で暮らしていた事になります。 とは言うものの、卒業して医師になってからは大部分が出張生活でした。岩手県内だけでなく、秋田県では鹿角組合病院、能代の山本組合病院、青森県では八戸日赤病院、さらには福島県の郡山市、喜多方まで行きました。期間は3ヶ月、6ヶ月、1年とさまざまでしたが、かなり多くの県立病院、民間病院での仕事を経験させてもらいました。妻も第一外科の医師だったため、結婚してからは単身赴任です。長女が生まれた時は岩手の軽米病院にいて、長男が生まれた時には三陸の大船渡病院にいました。考えてみると、秋田に帰ってくるまでは家族一緒に暮らした時間は、通算3年半くらいしかないかもしれません。うち1年間は盛岡の高次救急センターに勤務していましたので妻には本当にこの頃は苦労をかけたと思います。ただこの高次救急センターに勤務していた1年間は、体力的には確かにとてもハードでしたが、一生に一度みれるかどうかと言う貴重な症例を多数経験することができました。今でもそのころの経験が自分の大切な財産となっています。MOFやDIC患者が多く、今ではすっかり忘れてしまいましたが、消化器内科なのに朝早くから連日透析をしていた事もありました。
 山本組合病院に勤務した時はちょうど新病院に移った頃で、検査の数も多く一日で胃カメラ37件なんて時もありました。鹿角にいた時は冬で、ある朝起きてみると、車が屋根まですっぽり雪に埋まっていて病院の職員に頼んで掘り出してもらった事もあります。
 喜多方ではご存知のとおりラーメンが名物でしたが、皆が言うほどなぜかさほどおいしいと思えませんでした。郡山の民間病院にはちょうど1年間勤務しましたが新幹線で毎週通いました。子どもがまだ6才と2才と小さかったためです。毎週末、新幹線で盛岡に帰ってきて日曜日に子どもと遊んで、月曜日の早朝始発の新幹線でまた郡山に戻るというスタイルを1年間続けました。今思うと自分でもよく続けられたなと思います。
 岩手県の中でも、山沿いの地域(通称森林警備隊)と海沿いの地域(通称沿岸警備隊)があり、どちらかと言えば赴任した病院は海沿いが多く、久慈、宮古、山田、釜石、大船渡などです。中でも山田病院で当直のたびに食べていた「やきかぜ丼」(焼きウニ)の味はいまだに忘れられません。山田病院といえば、悲しいことにあの三陸宮古直送の焼きウニの味しか思い出せません。秋田に帰ってきてからも時々インターネットで注文しているほどです。大船渡病院ではなぜか閉塞性黄疸の患者が多く、毎日の様にESTばかりしていた様な記憶もあります。
 あまりにもいろいろなところを飛び回る生活をしていたせいか、秋田に帰ってきて毎日子ども達と一緒に過ごせる生活はとっても大切な時間だと実感しています。とりとめのない文章になってしまいましたが、次は私の弟・吉成力Drにバトンをリレーいたします。
 
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