トップ会長挨拶医師会事業計画活動内容医師会報地域包括ケア介護保険について月間行事予定医療を考える集い学校保健関連

<ペンリレー>

発行日2006/06/10
橋本愛隣医院  橋本禎嗣
リストに戻る
推理小説を読むことと書くこと
 
 推理小説を好んで読むせいか間尺に合わない筋の小説を読むと妙に気になることがあります。たとえば芥川龍之介の「羅生門」の中で主人公は羅生門の楼内に多数の死人を発見するのですが、死人を打ち捨てるのならいっそ往路に捨てていけばよいのになぜわざわざ楼内まで担ぎ上げなくてはならなかったのでしょうか。これは旧記にそのように記載されていたから止むを得ないのでしょうか。太宰治の「走れメロス」もそうです。私はあの小説を読んで、このメロスという若者は、命を軽く棒に振る男で思慮分別がなくそために友人すらも渦中に引き込むことになったのだと思いました。もっとひどいのはこの暴虐極まりない王に対する市民の態度です。メロスと親友が抱き合うのをみて王がおずおずと「私も仲問に入れてくれんか」といいます。それを見た民衆が王様万歳と叫ぶ。私は恥ずかしくなりました。王も王だが民衆もなんと愚かしげなことか。もっとも原作は古謡でシーラーも書いているからしかたがないのでしょうか。 
 推理小説はノートを取りながら読むほどではないのですが大なる誤謬があるとがっかりします。イーデン・フィルポッツの「赤毛のレッドメイン」を読んで、なお作者は98歳の長寿を全うし作品も多数ですが、本邦に知られているのはこの他に「灰色の部屋の謎」「闇からの声」くらいで、他の作品はイギリスでもほとんど読まれなくなったと英文学の教授が話していました、江戸川乱歩が激賞してからベストテンに必ず選ばれますが、2つの重大な過ちに気づいて呆然としてしまいました。
 クロフツの「樽」もあまりにも有名ですがその最後半、大団円間近にぶち壊しにしかねない誤謬を発見して残念というか、ここいらが推理小説の限界なのかと暗然といたしました。このクロフツも今で英米ではほとんどが絶版で知る人も稀だそうです。
 こう考えると日本人は古き良きものを大切にしますね。乱歩の選んだベストテンはいまだに生きています。
 推理小説の中で特に目に付く問題点として法医学をあまりに無視していることではないでしょうか。法医学などと大壇上に振りかざさなくとも、流れ出す血潮の始末があまりにも杜撰でこれではとても殺人の参考書にはならないと思います。そういう暗黙の了解があるのでしょうか。カポーティの「冷血」のように生々しい描写は敬遠されるのでしょうか。とすると推理小説とは最初から現実には到底ありえない世界の物語なのでしょうか。
 アガサ・クリスティの「メソポタミア殺人事件」で窓辺に流れた血痕を一言も言及しないのはなぜでしょうか。「そして誰もいなくなった」では死者のふりをせざるを得ない、死んだふりをする状況が述べられているが、皆さん事件を惹き起こして死んだふりをして横たわっていることができますか。ここいらが推理小説は大人の童話にしか過ぎないのかと思い惑うのです。かつての同級生の女医さんはクリスティのファンで半分読むと犯人が分かるそうで、大体犯人は独身の魅力的な中年の男性だそうです。話はまた別ですが、クリスティと同時代に覇を競ったドロシイ・セイヤーズはその学識豊かなことより彼女よりも遥かに高位に叙せられるかもしれません。とくに「ナイン・ティラーズ」は教会の鐘の鳴鐘術が英国の田舎の人々の生活と共に暖かい目で描かれています。たとえば死者のでたときに教会で鐘を打ちます。初めの回数で男か女かを知らせます、次が年の数です、これで村人は死人がどこの誰かを知ることができるのです。
 クリスティの名誉のために申し上げますけどトミーとタッペンスが初老になった物語、「親指のうずき」は傑作で、ある風景画をみて過去の犯罪に気づく、どっかでみた景色だと列車に乗って似た風景を探す旅の描写は忘れられないものがあります。他に「アクロイド殺し」はシェパード医師が主人公なので興味深かったでした。彼は看護婦なしに一人で働いているようです。
 法医学の問題といえば尊敬してやまない鮎川哲也氏、とても呼び捨てにはできません、推理小説には論理が必要だとあくなき追求をした人です、ですから彼の作品には、お一、神のごとき叡智、といった名探偵はでてきません、探すほうも探されるほうもごく普通の人なのです。昭和30年代推理小説の勃興期、剽窃の疑いをかけられた作者、多分本人自身、が同時代の作家との交友を介して真犯人を探す「死者に鞭打て」、明治初期ハンセン病を治すために少年を殺害した事件に材を取った「ああ世は夢か」、終戦前の満州を舞台にした「ペトロフ事件」、これらは何回読んでも面白い。推理小説の今後の課題は、再読に耐える、途中から読んでも面白い、すなわち叙情性に優れているのではないでしょうか。
 さて戻りますが、鮎川氏の作品に背中にナイフを刺したまま歩いて自宅に帰る話があります。このナイフが栓の働きをしてしているから抜かなければ出血しないのだという記述がありますが、これで鮎川氏はナイフで人を刺したことのないことがわかります。
前述しましたが今では忘れ去られた作家や小説は多数あります。やはり江戸川乱歩が激賞したウイリアム・アイリッシュ(コーネル・ウールリッチ)の「幻の女」はその書き出しの詩的なことから本邦ではあまりにも有名ですが彼が1998年に死去したときは新聞にその知らせすらのらなかったそうです。
 同様のことはヴァン・ダインにもいえます。1930年代は絶頂を極めたのに今はまったくかえりみられないそうです。尊敬してやまないディクスン・カーも、また全作読んだは読んだもののあまりにもまだるっこくて二度と読むものかと思っているエラリー・クィーンも、米国ではネロ・ウルフ、私はこんな高脂血症の主人公のでる作品は一冊も読んでいないが、にすっかり下克上されているようです。
 本邦で尊敬する作家が鮎川哲也氏なら外国ではディクスン・カー(カーター・ディクスン)です。不可能犯罪、密室物への飽くなき要求には脱帽しますが結末はやれやれ、仕方ないなあ、ということが大半ですがしかしその怪奇趣味、懐古趣味と合わせてそれを補って余りがあります。「魔女の隠れ家」「引き潮の魔女」「赤後家の殺人」は何度読んでもおもしろいです。
 レイモンド・チャンドラーも忘れてはいけません。先年北海道旅行に読んだ「高い窓」は印象的でした。所々に入るしゃれた言い回しがおもしろい、たとえば「その度数の強いワインは昨日の孫にあたるだろう」一三本目の意一とかです。これにでてくる孤独な探偵、フィリップ・マーローの「男は強くなければ生きてゆけない、優しくなければ生きてゆく資格がない」という言葉は名言ですね。しかし、気になるのはマーローはしょっちゅうウィスキーを飲んでは車を運転していますが、このころはあまり問題にされなかったのでしょうか。
 私は原則として生きている作家の本は読みません。ローレンス・ブロックは別です、この許可証を持たないアルコール中毒の探偵は市井の片隅の、警察で取り扱ってくれない事件、たとえば、3年前に殺された娘の再調査、などを請け負うのですが「聖なる酒場の挽歌」「八百万の死に様」は印象に残ります。しかし、マーローもスカダーも年金保険に入っているという記述はないし老後はどうなるのかいささか心配です。2人とも今は爺さんになっていると思います。
 先日禁を破って、評判の良さに負けて「ダ・ヴィンチ・コード」を読みましたが主人公がルーブル美術館から稚拙な方法で逃亡する記述があって、フランス警察がそんなことに惑わされるのでしょうか、すっかりいやになっていまだ上巻で終わっています。
 本邦でももちろん鮎川哲也氏のほかに有名作家は多数いるのですが松本清張の「砂の器」はかつてみた映画の映像がすばらしかった。亀田の患者さんの向かいの古い郵便局の建物が使われ、地元のひとがエキストラででたそうです。「Dの複合」の前半はおもしろくて3度は読みました。「日本の夜と霧」は労作です。社会派という宿命上今後の寿命はどんなものでしょう。横溝正史の「八つ墓村」は戦争中中国山地で実際にあった事件を題材にしていることで妙な信憑性があって面白く読みましたが、他の作品のおどろおどろしさと、ふけをとばす名探偵はどんなものでしょう。
 水上勉の「飢餓海峡」は本家のある下北半島が舞台で、また洞爺丸台風は私が3歳の時のことなので真剣に読みました。しかし犬飼多吉は台風の余波の強い津軽海峡を手繰り舟で越すことができたのでしょうか。後半に述べられるように彼は京都山中の男で舟の扱いには慣れてないはずです、下北半島仏ヶ浦にたどり着き舟を引き上げ証拠隠滅のために燃やしたとありますが人ひとりの力で舟を丘の上まで引き上げことができるのでしょうか、また後年訪れた元娼婦杉戸八重をなぜいきなり殺害しなければならなかったのでしょうか、しらを通しても良かったのではないでしょうか、といった疑問がつきまといます。
 鮎川哲也氏のほかに尊敬する作家としては岡本綺堂を忘れてはなりません。元々は明治に活躍した劇作家で「修善寺物語」は有名ですが、江戸時代の風俗を書きとどめようと筆をおこした「半七捕物帳」は中学の教科書に載せたら少年少女が文学に親しむようになるに相違ないと思うくらい立派な文章で書かれています。その巻頭を飾る「お文の魂」は百物語など怪談の流行した幕末にあって、怪奇な話を口にすると苦々しげな顔をしていた元御家人の叔父が「しかし世の中にはわからないことがある、あのお文の一件はなあ。」と呟いたことが縁に成ってかつて岡引三河屋半七として腕をふるった、今は隠居をしている老人から手柄話を聞くという筋書きです。私はおそらく10回以上読んだと思います。「春の雪解け」等も怪談仕立てで傑作です。
 さて私は60を過ぎて老いの手遊びに小説を書き始めました。大概の本は読んでしまったので、もっとも「静かなるドン」や「チボー家の人々」は読んでいませんが、これらは余命いくばくもない身で無理に時間を浪費して読むことはないでしょう、それでヴァン・ダインのようにいっそ自分で書いてみたらというわけです。書いてみるとなかなかおもしろい、才能があるのではないかとおもいます。別に人に読まして賛同を得たいなどという野望もなく筐底に秘めてあの世にもっていこうと思っているので誰にも迷惑はかかりません。
 時代小説、恋愛小説、怪奇小説、推理小説と分けて書きますがどれが一番書きやすいと思いますか。書きやすいのはまず時代小説です。これは舞台背景を誰も見たことがないからでしょう。根岸鎮衛の「耳袋」、将軍家斉のころ名奉行といわれた人ですがよほど筆まめな人だったのでしょう、市井の噂話を書き連ねています。これは好個の文献になります。次が恋愛小説です、これは時代に普遍的なことだからでしょうか、若いころ読んだ、今は忘れられた作家、シュミットボンの「村のロメオとユリア」など妙に懐かしく思い出されます。3番目が恐怖小説です、外国にはM・R・ジェイムス、レ・ファニュ、ブラットベリのように生涯恐怖小説のみ書き綴った作家がいますが本邦では片手問の作家が多いようです。この中で参考になるのは前述した岡本綺堂の「青蛙堂鬼談」です。3月の雪の日に百物語をするという趣向で、夜であれば思わず後ろを振り向きたくなる恐怖に襲われます。
推理小説、これが一番難しいですね。江戸川乱歩を懊悩させたように大団円で読者をあっといわせなくてはなりません。そのトリックを考えるのが至難の業です。今書いているのは、今年の目標は江戸川乱歩賞に投稿することですが、その古い学校は戦中大空襲のときに被災者があつめられ、死者から指輪などの貴金属を集めたがそのなかにはしばみほどもあるダイアの指輪があったが行くえ不明になっていた、配属将校が音楽室で割腹自決をしていて壁に血染めの辞世の句があった、その死体はバルコニーから落下して発見された誰がどうやって移動させたのか。戦後まもなくその音楽室の密室の中でダイアをさがそうとしたのか教師が死亡していた、そして今再び今は使われていない校舎で教員が不可解な死を遂げた、そして最初学芸会の準備にきた少女が発見したときに死体はうつ伏せであっのに通報により警察官が駆けつけたときはなぜか上向きになっていた。その発見者の子供たちに怪しい影が忍び寄る。そして今度は密室である校長室で当直の教頭が殺害された。これがあらすじです。書いていて我ながら支離滅裂になります。しかし毎日書いていると着実に終結に向かってます。深更パソコンに向かっていかに遺漏なく殺害しようかと思案していると我ながら物狂おしく思えるのですがもはや魔に魅入られた状況です。
 推理小説は文学たりえるか、これが私に残された命題です。


次回は越後谷武先生にお願いします。
 
 ペンリレー <推理小説を読むことと書くこと> から