整形外科医になって間もなく日本リハビリテーション医学会が発足し、その会員にもなって、二足の草鞋を履いて仕事をしてきました。したがって障害を持つ人との関わりが多く、ときに、弱者と呼ばれるそうした人達から強烈な衝撃を受けることがあります。たとえば、それは個人の潔い生き方の形をとって現れます。 十年以上前、秋田にコラ・ヴォケールというシャンソン歌手が来ました。私と妻にとっては忘れがたい名前です。その三十年も前、大学生だった私がシャンソンのとりこになっていた頃、レコードがすり減るほどよく聴いた歌手だったからです。当時、多くの歌手が居ましたが、一対をなす女性歌手がその中に混じっていました。一人は実存主義の作家達と親交があり、いつも黒のタートルネックで舞台に立つジュリエット・グレコ。もう一人がモンマルトルで純白のドレスに身を包むコラ・ヴォケールでした。医者になってからはシャンソンとも縁遠くなっていましたが、あまりの懐かしさに妻と共にそのリサイタルに出かけました。もちろん本人を見るのははじめてです。往時、白の女王と呼ばれていた頃に比べると、歌いぶりからはある種のコケットさが消え、声は深みを増して、曲によっては荘重さを感じさせる落ち着いたものでした。ただ舞台の上ではほとんど動きが無く、クラシック歌手のように静かに立って歌うばかりでした。 コンサート終了後、楽屋を尋ねて、「昔のファンだったこと。その夜歌われなかったがある曲(題を忘れてしまっていた)が好きだったこと」を話し、1フレースを口ずさむと、彼女は日本の一地方に昔を知るファンが居たことに驚き、また喜んで’ジェーム’というその曲を私たちのために楽屋で歌ってくれました。私は好きなの。月明かりの下で、薔薇色や、黄や青の貝殻を、ひろうのが、、、、、、、、、。それから「あなたのお仕事は何ですか?」という質問があり、整形外科医ですと答えると、「じゃ、これがわかるでしょう」と言ってドレスを引き上げ、肘、手関節、膝、それに靴を脱いで足までも見せたのです。私は一瞬わが目を疑いました。華やかな舞台衣装の下から現れたのは、やせた手足と変形した関節、そして多くの手術創であり、それは彼女が長年リウマチと闘ってきた重度の身体障害者であることを物語っていました。「関節リューマチ!」それが私の発することのできた一言でした。「そうなのよ。それに今は慢性肝炎も患っていて、毎日点滴もしているのよ」。いつ、どこで倒れるかも知れない状態でどこからこのような生きかたを選ぶ力が出てくるのだろうか?「私はシャンソンを歌うことが大好きで、皆さんに喜んでもらうことも大好きなの、それでこうして世界を巡リ、シャンソンを通じて人生を語っているのです」。そう話すその人の話しぶりは、あくまでも明るく、眸は少女のように輝いているのでした。私は打ちのめされたように感じました。仕事をしていくにあたって、周りの条件の悪さや理解のなさに対する不満をつぶやいてばかりいる自分はなんと卑小な人間なのだろうと。 また衝撃は人間社会の深い洞察の上に立った行動の形をとって現れてくることもあります。 国際障害者年(1980)にカナダで開かれた「世界リハビリテーション会議」理事会で、’参加者の半数以上を障害者とするよう検討する’という提案が否決された時、世界の専門者会議にしてもこの程度の理解なのかと怒った障害者達が、急速に盛り上がった雰囲気の中で、その場で「世界障害者連盟」を結成したということがありました。その4年後、ポルトガルで開かれた国際リハビリテーション世界会議(1984)に出席したとき、そのメンバーの一人が、車椅子に身体を固定し、酸素を吸入しながら、自立生活(Independent Living=IL)運動の意義について「社会を障害者の住みよい形に変えて行こうとする私達の運動は、障害者だけの為にやっているのではありません。あなたがた健常者の為にもやっているのです。障害者の住みよい町になれば、あなた方がいつ障害者になっても安心ではありませんか」と穏やかに、しかしプライドを持って壇上から聴衆に話しかけてきたときに、障害児・者のために働いていたはずの私の立場は大きく揺らいだのでした。 実際、それから二十年以上過ぎた今の日本では高齢化問題が国の最大の検討課題になっています。介護保険に表されるように、高齢者問題の本質は障害者福祉なのです。 ノーマライゼーション、自立生活運動など、障害者が身体を張って目指している大きな動きが、どれだけ広い視野に立ったものかを、あらためてこの時深く実感させられたのでした。私達、いわゆる健常者の明日のためにこの運動があるのだとすれば、弱者・強者とは一体誰を指すのでしょうか? 次回は秋田高校同級で同じ整形外科の笹尾満先生にお願いしました。
|